本当に神様はいらっしゃるのでしょうか? 「神様は霊ですか…」(要4:24)とイエス様はサマリアで会った女性に言いました。 人間は霊的な存在です。 肉体から魂が抜けてしまうと、つまり死亡すれば彼の体はすでに腐敗していく物質に過ぎません。 しかし、この肉体を支配している魂は絶対に見ることができません。 では、ヤングは体のどの部分に留まっているのでしょうか? 頭あるいは心臓でしょうか? 神様にいらっしゃるかについてのみ扱います。 第一に、言いたいことは霊的な存在は私たちの肉体的感覚では確認できない、つまり見ることができないということです。 神様は目では確認できない方です。 つまり科学的な方法で分析して分かる方ではなく、霊体の方です。 しかし、私たちの魂は神を知ることができます。 あなたの霊は神を否定しているのでしょうか? そうではないと信じています。 帰りにあの地平線に潜む真っ赤な太陽を見たことがあるでしょう。 おそらくあなたの心の中には全宇宙を創造された創造者が存在するという事実に大きく感動したと思います。 また、ナズナの花が咲いてタケノコが育ち、クルミが熟すのと暑い夏、道端に生えてきた膣鏡やノイバラのつるを見ることができます。 このような大自然の背後に創造者がいらっしゃることを実感します。 そして歴史を通じた審判を見てみましょうか? もし第二次世界大戦でドイツのヒトラーが勝利していたら、今頃どうなっていたでしょうか? また、日本がアメリカに勝っていたら、日本や世界はどうなっていたでしょうか? 私たちが知るべきことは、歴史の支配者は神であるという事実です。 その神様が聖書に明かしておっしゃっています。 そして神様から人になりました。 その方がまさにイエス·キリストです。 神様を見るためにはこのキリストを見ろと言いました(要1:18).2.キリスト教徒はどこか弱いです。そうかもしれません。 いつもニコ笑い上手で、ぺこぺこだから弱く見えるかもしれません。 しかし、重要なのは人の外見では問い詰めることができないということです。 ところがキリスト教徒は神様に対することで強くなります。 かつて日米戦争当時、キリスト教はアメリカの宗教、つまり敵国の宗教だとしてキリスト教徒が迫害を受けたことがあります。 ちょうどその時、北海道のある婦人会である将校が講演をしました。 「皆さん、私たち日本は天皇を神として高め、大東亜公営権を建設するだけです。 今、日本は多くの神々の助けでアメリカを打ち砕かなければなりません。 アメリカの神はただ一つだそうです。 私たち日本には800万の神々がいます。 皆さんまさかこの中で敵国の宗教であるキリスト教を信じる人はいないでしょう」と胸を張って威厳をもって言葉を続けようとすると、一番前の座席に座っていた気品のある上品な婦人会長が立ち上がって。 ” 私はキリスト教徒として天地を創造された真の神である神様を信じます。 私は祖国日本を愛しています。 偶像は崇拝することはできません」ときっぱり言いました。 囲んで座っていた皆がその奥さんの勇気につい驚いて口を開いたという話があります。 真の勇気とはそんなもので、普段は穏やかな姿ですが、いざあることにぶつかったら「はい」は「いいえ」は「いいえ」とはっきり言える人でなければならないのではないでしょうか? 現在必要としているのはこのような人物です。 キリスト教徒の特質は「温柔さ」にありますし、普段温柔だということもすごい勇気が必要なんですよね。 パウロも聖書に記録するには、「聖霊の実は愛と喜楽と和平と長く我慢と慈悲と良善と忠誠、慈悲と良善と忠誠、温柔と節制だから…」(ガル5:22-25)と言いました。 温柔な人は外面的には弱く見えるかもしれませんが、実は強いのです。 3.「人が餅だけで生きるのではないですか」という意味は? イエスは師団に試験を受けました。 40日間断食されたので、空腹による苦痛は想像できません。 皆さんも断食をしてみればわかりますが、たった一日の断食もどれほど大変なことか分かるでしょう。 そんな時に師団は「この石が餅になるようにしろ」と誘惑しました。 しかしイエスはその言葉に対して、「人が餅だけで生きるのではなく、神の口から出てくるすべての言葉で生きると言った」(マ4:4)と答えました。 これはどういう意味でしょうか? イエスはここで直接答えず、旧約聖書に記録された父である神様の言葉で答えました。 ですから、この旧約聖書の意味がわかれば、正しい理解になるでしょう。 まず、神明記8章1節から6節までを読んでみてください。つまり、神様が40年間イスラエル民族を荒野で訓練したのはなぜだったのでしょうか? また、神様はこの民に飢餓の苦痛も与え、同時に天からマナを降りてそれを食べて喜ぶ楽しさも与えてくれました。 なぜそうされたのでしょうか? それは人間が生きて死ぬことが神様の意思にかかっているという事実を教えるためだったそうです。 したがって、これは「人は肉体の餅と聖書という心の糧の2種類で生きる」という意味ではなく、本当にすべての人間は生死を決める神様の意に従順で生きなければならないということを教えたものです。 これが”神様の口から出てくるすべての言葉”の意味です。 前にアンデス山脈に飛行機が墜落し、人々が70日間雪の中で延命して救助されたことがありました。 ところが、その時彼らは遭難中に人の肉を食べたということでとても衝撃を与えた事件がありました。 しかし、そのうち3、4人のキリスト教徒は人の肉を食べることを拒否して死んでいきました。 これらの人々の肉体は永遠の生命の尊さを証明していると思います。 神様の公意を証拠するために死ぬということは「餅だけで生きるのではなく」人生の姿だと思います。 4. 原罪とはどういう意味ですか? 学生が国民学生の時に罪だということをどのように学びましたか? 知らなくても嘘をつくこととか、自分勝手な行動などで説明されていると思います。 しかし、中学生になったらもっと深く聖書の真理を知りたいと思うようになりますよね? 原罪という言葉は文字通り「罪の根源」を意味するものです。 人間がいろいろと悪事をする根本に原罪というものがあります。 それは根本的に人間が生まれてから神様との関係を失い、神様に背を向けている状態のことです。 そして、この原罪には二つの意味があります。 一つは「腐敗」を意味します。 人間の心はまるで外見は大丈夫だが、中身はすでに真っ黒に腐っているリンゴのような状態を言うのです。 また、渋柿のような人生のことを言う人もいます。 この腐ったリンゴや渋柿は、いくら一生懸命手入れをして磨いても依然として腐ったリンゴ、渋柿に過ぎません。 心が腐敗しているということは、心に調和(平安)がないということです。 学生は良いことをすれば楽しいと知りながらも思わず悪いことをしてしまう時がありますよね? 心に愛という貴重なものを持っていながらも、友達を憎むようになります。 いつまでも生きたいと思いながらも、肉体を見ると死を自覚してしまいます。 これらすべてが心の矛盾なのです。 つまりこれを原罪といいます。 もう一つの意味は「虚物」ということですが、この過ちは悪事をした結果、自分は審判を受けることになると恐れる心です。 これは良心の痛みだけでなく、最後の審判をすでに心に感じ、未来に対する恐怖心を持っているのです。 人は皆この罪意識から解放されたくて一時的な快楽を求めて自分の人生を占うことに熱中するもので、いくら努力しても自分が得ようとする満足と楽しさを満たせないのが人生です。 しかし、真の救いは渋柿の木のような人生がイエス·キリストという甘柿の木に接ぎ木されて再び関係を結ぶ状態をいうことです。 5。神様は父と子と聖霊がいらっしゃるのかな? 創世記1:26節に興味のある神様の言葉が記録したものです。 「神様がガラサデ、私たちの形に沿って私たちが人を作り、それで海の肉と空中の鳥と陸畜と土地全体に這うすべてを治めよう」と言いました。 ここで私たちとは誰、誰を指したのでしょうか? キリスト教の神様とは一人だと言いながら、このように表現したのは理解し難いのですが、なぜでしょうか? 実はこの”ウリ”という主語は複数なのですが、動詞は単数になっています。 つまり神様はその本質では一つですが、三つの人格的な活動をされる故に三位一体の神様だそうです。 新約聖書にこんな言葉があります。 「主イエス·キリストの恵みと神の愛と聖霊の交通は、あなたたちの群れと共にあるだろう」(ゴッホ13:13)。 キリスト教徒でない人が読むと、やはり神様が三人のような印象を受けますが、神様は一人だけです。 ですから、このように言えば少しは理解できますか? 神様が人の形をして来られた方がイエス·キリストです。 そして十字架にかけられる前にイエス様が、「私が去らなければ報恵師があなたたちに送られるから」(要16:7)とおっしゃいました。 今日、キリストの霊である聖霊が信じる私たちの心に入ってきています。 そして、聖霊が私たちにとって父親になる神、息子になる神、聖霊になる神が一人である神であることを私たちの心の中で証明してくれるのです。 これは何かの理論や理屈で計算できる問題ではありません。 教会ではこの真理を「三位一体」の教理と呼んでいます。 6.イエス様、再臨は事実ですか? 今から2千年前のキリスト教徒は街でもどんな家で会おうが信者同士では”マラナータ”と挨拶を交わしたそうです。 その言葉は「私たちの主よ、また来てください」という意味です。 イエス様は十字架について亡くなり、3日ぶりに復活されましたが、その復活したイエス様を数多くの弟子たちが見ました。 パウロによると、500 人以上の人が見たことがわかります。 そして、そのイエス様が復活してから40日後、多くの弟子たちが見守る中で天に昇天しました。 その状況を記録した聖霊の言葉をそのまま書いてみると、”··· 私たちを見るところから登っていくと、雲が私を隠して見えなくなった。 上がる時に弟子たちが詳しく空を眺めていると、白い服を着た二人が私たちのそばに立って曰く、「人々よ、どうして立って空を眺めるのか、君たちの中で天に昇らせたこのイエスは」